確率は信用できない 2013-10-16



◆確率は信用できない


事象が起きる確率とは、無限回の試行を経て初めて導出される値である。

しかし現実では無限回を実現できないため、うやむやな言葉を用いることとなる。

すなわち無限回は、十分多い回数、と言い換えて使われる。

さて、そうやって得られた確率だが、その確率をあてはめてみる対象も当然、

十分多い回数の試行が行われなければならない。

それが確率の定義に関わるからだ。

でなければ、少なくとも確率はその試行結果を保証しない。

導かれる私の主張はこうだ。

一世一代の大博打として、全財産を宝くじにつぎこむことを確率は否定しない。

この主張は限定的すぎるため、少し抽象化しよう。

「確率的に悪い」と言われる行為の多くは、実は「確率的に悪い」わけではない。

試行回数が少ないが故に。

そして、十分に多い試行回数など人は誰もわからない。




◆実例


先にも触れたように、宝くじは確率の観点では分の悪い勝負である。

したがって仮に、金銭の流れを逆にすれば、それは分の良い勝負となる。

たいていは300円儲かるが、運が悪いと例えばマイナス3億円という勝負。

あなたはただ一回のこの「分の良い」勝負を受けるだろうか?

私は遠慮したい。

しかしこの勝負を、途中いくらでも借金できて、そして、1億回できるとしたらどうだろう?
(もちろん、券は十分多く、そしてはずれ券に対するあたり券の割合は一定だ)

私はやる、かもしれない。

確率が保証してくれそうだからだ。

ああ、この例をどう考えるかは個人差を生みそうですね。




◆確率と事実の不一致


確率を当てはめる対象を選ぶときは、注意深くあらねばならない。

例えば、麻雀を確率だけで語る人は見当違いも甚だしい。

確率無視の手で勝利を掴んだ者に対し、

「でもそれは確率的に悪いから、長期的に見れば君は弱いね」

と言うのか?

宝くじ当選者に対し、

「でもそれは確率的に悪いから、長期的に見れば君は損している」

と言うのか?

当選者は君を笑うだろう。
(あるいは既に当選額を超えた投資をしており、赤面する)




◆最後に


数学における確率は、そもそも試行などという言葉を(たぶん)使わない。

おんなじ感じで起きそうな事柄を集めた数(あるいは面積などの測度)に対する、

注目する事柄の数の比が確率であると定義する。

実際に試行した際の結果など全く考えない定義であると言える。

おんなじ感じで起きることがそもそも前提なのだ。

だから仮に100000回さいころを振って全て6の目が出たとしても、

確率論者はうろたえない。

あくまでも彼にとって、さいころの目はそれぞれおんなじ感じに起きそうなのだから。

おんなじ感じに起きそうであることと、おんなじ感じに起きることは関係が無い。

1の目が出る確率はいつも1/6なのだ。

たかだか有限時間の果てでは、その■■を疑うことも無い。

そんな無責任な理論が確率である。

信用できる?




◆でも


僕は確率以外の手法を知りません。

だから仕方がなく、確率を使うんだよ。



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つか経験論だよ、それ。