◆確率は信用できない
事象が起きる確率とは、無限回の試行を経て初めて導出される値である。
しかし現実では無限回を実現できないため、うやむやな言葉を用いることとなる。
すなわち無限回は、十分多い回数、と言い換えて使われる。
さて、そうやって得られた確率だが、その確率をあてはめてみる対象も当然、
十分多い回数の試行が行われなければならない。
それが確率の定義に関わるからだ。
でなければ、少なくとも確率はその試行結果を保証しない。
導かれる私の主張はこうだ。
一世一代の大博打として、全財産を宝くじにつぎこむことを確率は否定しない。
この主張は限定的すぎるため、少し抽象化しよう。
「確率的に悪い」と言われる行為の多くは、実は「確率的に悪い」わけではない。
試行回数が少ないが故に。
そして、十分に多い試行回数など人は誰もわからない。
◆実例
先にも触れたように、宝くじは確率の観点では分の悪い勝負である。
したがって仮に、金銭の流れを逆にすれば、それは分の良い勝負となる。
たいていは300円儲かるが、運が悪いと例えばマイナス3億円という勝負。
あなたはただ一回のこの「分の良い」勝負を受けるだろうか?
私は遠慮したい。
しかしこの勝負を、途中いくらでも借金できて、そして、1億回できるとしたらどうだろう?
(もちろん、券は十分多く、そしてはずれ券に対するあたり券の割合は一定だ)
私はやる、かもしれない。
確率が保証してくれそうだからだ。
ああ、この例をどう考えるかは個人差を生みそうですね。
◆確率と事実の不一致
確率を当てはめる対象を選ぶときは、注意深くあらねばならない。
例えば、麻雀を確率だけで語る人は見当違いも甚だしい。
確率無視の手で勝利を掴んだ者に対し、
「でもそれは確率的に悪いから、長期的に見れば君は弱いね」
と言うのか?
宝くじ当選者に対し、
「でもそれは確率的に悪いから、長期的に見れば君は損している」
と言うのか?
当選者は君を笑うだろう。
(あるいは既に当選額を超えた投資をしており、赤面する)
◆最後に
数学における確率は、そもそも試行などという言葉を(たぶん)使わない。
おんなじ感じで起きそうな事柄を集めた数(あるいは面積などの測度)に対する、
注目する事柄の数の比が確率であると定義する。
実際に試行した際の結果など全く考えない定義であると言える。
おんなじ感じで起きることがそもそも前提なのだ。
だから仮に100000回さいころを振って全て6の目が出たとしても、
確率論者はうろたえない。
あくまでも彼にとって、さいころの目はそれぞれおんなじ感じに起きそうなのだから。
おんなじ感じに起きそうであることと、おんなじ感じに起きることは関係が無い。
1の目が出る確率はいつも1/6なのだ。
たかだか有限時間の果てでは、その■■を疑うことも無い。
そんな無責任な理論が確率である。
信用できる?
◆でも
僕は確率以外の手法を知りません。
だから仕方がなく、確率を使うんだよ。